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本さえあれば、日日平安

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長迫正敏がおすすめする本です。


本さえあれば、穏やかな日日。ほっこりコラム連載中です。本好きのほんわかブログ・「本さえあれば、日日平安」
本好きの、本好きによる、本好きのための“ほんわか”。一日を穏やかに過ごす長迫氏のおすすめ本はこれ!

2024/04/24 更新

本さえあれば、日日平安


長迫正敏がおすすめする本です。


文庫

思い出トランプ

著者:向田邦子

出版社:新潮社

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思い出トランプ

思い出していた。結婚したのは1989年だから今年35周年である。お互いの親兄弟だけ来てもらって式は挙げたが、披露宴はしていない。芸能人でもあるまいし・・・と言い訳した。本当は人前に出ること、目立つことが大の苦手だったのだ。
それでも新婚旅行には行くことにした。彼女とは同じ店で働いていた。挨拶のため旅行前に2人揃って店に立ち寄った。

「あっ来た来た。ほら、こっちおいで~」と手招きされ外商さんの倉庫に行った。各店から集まってくれたスタッフが、拍手と笑顔で迎えてくれた。披露宴をしなかった私たちをサプライズでお祝いしてくれたのだ。
花束を頂き、ジュースで乾杯した。まだ昼間で皆さん勤務中だったからだ。それに私はお酒が全くダメだ。更にこれから車で九州一周の旅行に出かけるからでもある。

もちろん今もそうだが、バブルの頃で新婚旅行と言えば海外が主流だった。だが私はその時まだ飛行機に乗ったことがなかった。ましてや海外に行ったこともない。それから30年過ぎ、娘の結婚で台湾に行ったのが初めてである。
実は成田離婚(意味はネットでお調べください)が怖かった。なので悟られないようにもっともらしい言い訳を用意していた。「新婚旅行の定番は九州、なかでも別府と宮崎でしょう!」

それは昭和30年代の話だと笑われながら、それではと車で走り出すと後ろで何やら音がした。窓を開け振り向くと1年先輩の児玉さんが笑っていた。「何でもない何でもない。気をつけて行っておいで~」と送り出された。

古い映画やドラマでご覧になられたことがあるかもしれない。結婚式を終えたばかりの新婚カップルを乗せた車に多数の空き缶が括りつけられており、ガラガラと派手な音を立てながら走ってゆく場面を。
交差点を曲がり見送ってくれた皆さんが見えなくなってから道路の脇に停めて外した。道行く人から注目されて恥ずかしかったが、今となっては良い思い出である。

旅行から帰った翌日出勤するとコア店への転勤を告げられた。出発の時、空き缶ガラガラでお祝いしてくれた児玉さんがキャスパ店の初代店長として赴任するためコア店を離れることになったからだ。売上の一番店だったこともだが、あの児玉さんの後任として呼ばれたことが誇らしかった。

「今からすぐ引継ぎに行っておいで」と言われ、その時勤めていたブックシティ店から彼女に見送られて向かった。結婚したとたん店が別々になってしまったが、それでも「いいもんね。これからは家に帰ったらいつも彼女がいるもんね」とルンルンしていた。
もちろん、そんな浮ついた気分はしばらくの間だけだった。姉さん女房の尻に敷かれる日日の始まりである。でも私は予想していた。どんなに年下の女性と結婚しても尻に敷かれるだろうと。なので年上の女性を選んだのだ。いや~うちのは姉さんだから…と言い訳できるからだ。

コア店はオープン2年目、隣接する文具とコミック売場からなる別館がまだ建つ前で、店の横は田んぼだった。町内会の日程に合わせ店舗の裏にある溝を掃除していた。それはお隣の田んぼに水を引き入れるための農業用水路だったのだ。
入荷のない日曜日の早朝に若手の男子スタッフがネクタイを外して腕まくり、長靴をはきスコップ片手に溝に入った。

その様子を児玉さんがわざわざ見に来られた。後輩たちがちゃんとやっているか心配だったのだろう。しばらくして、「ナガちゃん、この溝の名前を知っとる?」と尋ねられた。単なる農業用水路のはずだ。名前があるんですか?
「これは哲学の溝って言うんで」

何ごとかを思案しながら散策するのが京都の「哲学の道」。コア店のポリシーは「独自のイベントやブックフェアを月替わりで開催する」である。たとえ溝掃除であっても無駄にしてはいけない。何か良いアイデアが浮かぶかも知れない。常に考えろ、考えろ、考えろ。
私たちは見るからに「やらされ感」満載だったのだろう。いや「私たち」ではない。児玉さんが一番心配だったのは、後任に指名された「私」である。何をするにも遠慮がちで、ともすれば人の意見に流されやすい。いつも考えているのはアイデアではなく言い訳。

哲学の道の中ほどには、哲学者・西田幾太郎氏の名言「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」と刻まれた石碑がある。
「哲学の溝」は児玉さんからのメッセージだったのだ。

誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。『思い出トランプ』 向田邦子 新潮文庫

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